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  珈琲エッセイ

  龍馬コーヒーを飲む?
   
 
 龍馬グラバー邸でコーヒー初体験?
 
 
明治に替わる4年前の1864年長崎に始めて来た龍馬は勝海舟に連れられてグラバー邸を訪問、面談の後、コーヒーが出された。 長崎港を見下ろす高台にあるグラバー邸の応接間である。
心地よい香りに誘われてコーヒーを口にした龍馬は、その苦さに顔をしかめたが、飲み干し、「まっこと、うまいにゃあ」と言った。新しいもの好きの龍馬なので、多少無理をしたのではないだろうか。

以上のような想像をしてみましたが、坂本龍馬は本当にコーヒーを飲んだのでしょうか? コーヒーを飲んだとの証拠資料は見当たりませんが、以下龍馬の行動と時代背景を考証してみると、長崎でコーヒーを味わっていると推定されます。

龍馬像(長崎風頭公園)

コーヒーに関する時代背景を考証
エチオピアで発見されたコーヒーは、16〜17世紀にアラビアからトルコ経由ヨーロッパへ伝来、爆発的に流行しました。1699年オランダがジャワ島で商業的コーヒーの栽培に成功、18〜19世紀のコーヒー貿易の主導権をオランダが握りました。 この時鎖国の日本で唯一外国の窓口であったのが長崎出島のオランダ商館であったことから、コーヒーが日本へ初めて上陸したのは1700年代の初頭の長崎出島と想定されます。コーヒーを始めて味わった日本人は、出島に出入りしていた遊女あるいは通詞達のごく限られた人だったでしょう。 その後蘭学者・医者・役人等、次第に拡がっていったと想定されます。

日本ヘコーヒー伝来を示す確実な最初の記述は、1776年オランダ医ツンベルクの「日本紀行」の中で、「二、三の通訳のみがようやくコーヒーの味を知るのみである」と書かれています。日本人初のコーヒー飲用体験記は1804年太田蜀山人の「瓊浦又綴」の中の「紅毛船にてカウヒイというものを勧む。 豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり。焦げ臭くして味ふるに堪えず。」
お茶文化で育った蜀山人にとってコーヒーはさぞ苦かったでしょう。

1826年シーボルト「江戸参府紀行」に「日本人は社交的であり、我々と会合する時は好んでコーヒーを飲むが、世界最初のコーヒー商人(オランダ)と交易しながら、流行しなったのは不思議なことである」との記述があります。一方、記述されているコーヒーの輸入量から、少しづつではあるが、出島の外で常飲した日本人が推定されるほどに広まりつつあることが覗えます。

1856年、商品としてのコーヒーが初めてオランダより入荷。 このように日本のコーヒー黎明期は長崎を舞台に展開されました。坂本龍馬が長崎にきたのは、次項で示すように、1864年から1867年である。

上記の時代考証から、商品としてのコーヒーが長崎に入荷し、出島の外にコーヒーが広まりつつあった時期であり、グラバー等と交流があったことを鑑みると、新しいもの好きの龍馬ならばきっとコーヒーを飲んだであろうと思われます。

龍馬の足跡を追ってみようと思う。
1835年
(生誕)
11月15日 高知城下(現高知市本丁筋1丁目)で龍馬誕生。
父は土佐藩郷士の坂本八平直足、母は幸、兄一人、姉3人。 時代は天保の大飢饉の最中だったが、坂本家は裕福で、幼少の頃は甘やかされて育った。 末っ子で泣き虫だったが、3歳上の姉乙女に武術・水練など厳しく鍛えられる。 14歳から小栗流剣術を学び、19歳で小栗流和平法事目録を与えられる程に成長。
1853年
(19歳)
3月 剣術修行のため江戸へ。 北辰一刀流千葉門下に入る。
6月 ペリー提督の米艦が浦賀に初来航、続いて翌年二度目の黒船来航に龍馬は衝撃を受けたに違いないと思われる。 西欧砲術を学ぶ必要性を感じ、佐久間象山に入門。先輩の門下生には、勝海舟、吉田松陰、橋本佐内、河井継之助等の名がある。
一方、千葉道場師範代千葉重太郎の娘「佐那」と恋に落ち、結婚を約束する。 龍馬の初恋は土佐勤王党の平井収二郎の妹「加尾」とされているが、龍馬は「佐那は平井加尾より美人である」と姉乙女に送った手紙に書いている。 別の資料によると、目立つほどの美人ではなかったとの説もあるが、佐那が龍馬に夢中になるほど熱をあげていたことは確からしい。 佐那は、龍馬が暗殺されたのちも生涯独身を貫き、墓には「坂本龍馬室」と刻まれている。
1854年
(20歳)
土佐に帰る。 ジョン万次郎の漂流を記した「漂巽紀略」の著者河田小龍を訪ね、世界情勢を聞く。小龍の話から、龍馬は海援隊のヒントを得たといわれている。
1855年
(21歳)
長崎西役所内に海軍伝習所開設。伝習生監が勝海舟。
1856年
(22歳)
剣術修行のため江戸再遊。千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法」を授かる
1857年
(23歳)
オランダより第二次海軍伝習隊出島に上陸。
この中に海軍軍医ポンペがおり、西洋医学の講義を始めた。長崎大学医学部の開学とされている。 また海軍伝習所教官ハルデスの指揮の下、長崎飽の浦で製鉄所の建設が始まる。 三菱重工長崎造船所の始まりである。
1858年
(24歳)
4月 井伊大老就任、 日米修好条約締結。
9月 龍馬が土佐に帰国した直後から安政の大獄が始まる。
吉田松陰らが死罪、徳川斉昭、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂らが隠居や謹慎、西郷隆盛は薩摩に逃亡、追い詰められて錦江湾に身を投げるが奇跡的に助かり、島送りとなる。
1859年
(25歳)
海軍伝習所閉鎖。 長崎・神奈川・函館が自由貿易港となる。
長崎は鎖国の特権はなくなったが、国際的には実質上開港であり、グラバー等外国商人たちが続々とやってきた。
1860年
(26歳)
1月 遺米使節団が咸臨丸で品川出航。 勝海舟従航。
3月 桜田門外の変、井伊大老暗殺される(46歳)。
1861年
(27歳)
武市半平太が「土佐勤王党」結成。 龍馬血判加盟。
当時の土佐藩では吉田東洋ら上士以上のほとんどが佐幕派(幕府援護派)、郷士以下に討幕派が多かった。 上野彦馬が長崎新大工町に写真館を開く
1862年
(28歳)
1月 武市半平太の使者として、長州萩へ赴き、久坂玄端を訪う。
3月24日土佐を脱藩。
龍馬の脱藩を聞いた武市半平太は「土佐にはあだたぬ(おさまりきれない)奴」と言った。
当時の土佐藩内部では上士と下士の対立があり、国境の関所番は下士である郷士であり、脱藩者が居ても見て見ぬふりをしていたらしい。 下関から九州へ渡り、薩摩入りを試みるが果たせず。
3月 島津久光上洛。 薩摩同士の内紛である京都伏見寺田屋騒動。
4月 高知で吉田東洋暗殺される。 刺客は土佐勤王党の郷士。
龍馬大坂を経て、8月江戸へ、千葉道場へ転がり込む。
7月  勝海舟は幕府軍艦操練所頭取に
8月 生麦事件
10月 千葉重太郎と勝海舟(40歳)を訪問、世界情勢を説かれ、勝海舟門下に入る。
激動の人生の始まり!
12月 松平春嶽に謁見、横井小楠を紹介される。
横井小楠は実学を唄えた開国論者であり、開国通商、殖産興業、富国強兵の必要性を説いている。 後日龍馬は熊本で小楠を訪問、深く感銘を受けている。
12月 幕艦順動丸にて勝と共に、品川→兵庫
1863年
(29歳)
1月 幕艦順動丸にて勝と共に、兵庫→江戸
1月 勝海舟が山内容堂へ龍馬の脱藩罪赦免を願い出る。
2月 京都土佐藩邸で7日間謹慎後、脱藩罪赦免。
龍馬は「余計なことをしてくれるから、窮屈な目に遭わなければならない」と。
7日間の謹慎で、脱藩という重罪を免れたが、行動派の龍馬にとって、たとえ数日でも同じ場所に留まるのは苦痛だったようだ。
3月 江戸へ
4月 幕艦順動丸にて上洛。
長州が攘夷決行、 5月 下関で仏船、蘭船を砲撃、6月 米・仏艦報復砲撃
5月 龍馬は松平春嶽から海軍塾の開設資金、五千両の借り入れに成功する。
この金額は越前福井藩の1年分の予算にあたる大金で、海舟を驚かせた。
6月 姉乙女への手紙で「・・・日本をいま一度洗濯いたし申し候事にいたしべくとの神願にて候」と。 龍馬の青春の志が伝わってくる。
7月 生麦事件の賠償問題不調に終わり、薩英戦争。
軍事力の差を痛感した薩摩は攘夷から開国へ転換。 イギリスとの講和交渉で、薩摩がイギリスから軍艦を購入し、和平成立。 以降、イギリスと薩摩は武器他の売買によって接近していく。この交渉で活躍したのが大久保利通。
8月
尊王攘夷派の志士達が「攘夷・親征の勅」を得る計画し、その先鋒として「天誅組」が挙兵するが、朝敵となり、9月 壊滅。 これは公武合体派の会津・薩摩藩が尊王攘夷派の公家・長州藩他を京都御所から一掃したクーデターである。 この政変で働きを認められたのが「新選組」。
10月 龍馬 神戸海軍操練所塾頭。 勝と共に 大坂→浦賀→江戸
12月 将軍家茂の上洛艦翔鶴丸に勝と共に従行。
12月 土佐藩より帰国命令。
翌年2月海舟の嘆願にもかかわらず、国元召還の延期は認められず、龍馬は再脱藩することとなる。
1864年
(30歳)
2月 勝に随行して長崎入り。 龍馬初めての長崎!
勝の長崎行きの目的は、長州攻撃を構えている外国艦隊を慰留せよという幕命である。
長崎入りのルートは二説ある。
13日大坂から翔鶴丸で瀬戸内海を通って佐賀関へ、阿蘇・熊本を経由して23日長崎着。 途中熊本で、海舟の意を受け、横井小楠を訪問。 他説は司馬遼太郎の「龍馬がゆく」の馬関海峡を抜けて伊万里に上陸、徒歩長崎へ。 当時長州は反幕であり、幕府艦で馬関海峡を通過することは非常に危険で、疑問が残る。 長崎での龍馬、勝に従い外国の領事・艦長との交渉に立会、日本の夜明けの構想が浮かんできたのではないだろうか! 勝に連れられて、グラバー邸にいた五代友厚を訪ねているので、
この時コーヒーを味わった可能性が想像される。
見晴らしの良いグラバー邸の応接間で龍馬がコーヒーを飲む図を想像するだけで楽しくなる。
4月 帰坂。この頃、楢崎龍(23歳)と出会う。
父は町医者で勤皇家の楢崎将作、安政の大獄に連座したのち病死。 お龍はうりざね顔で色白の京美人であるが、義侠心に富んだ勝気な女性だった。 乙姉への龍馬の手紙では「まことにおもしろき女、私に似ており候」と。
6月 尊攘派志士を新選組が襲った池田屋騒動。
この事件で新選組は一躍ヒーローに
7月 西洋学者で開国論者の佐久間象山京都で暗殺される(54歳)
ちなみに象山の奥方は勝海舟の妹。 7月 長州と幕軍が蛤御門で交戦、長州久坂玄端自刃。
7〜12月 第一次長州征伐
8月 英米仏蘭連合艦隊下関を攻撃
10月 勝の使者として、京都で西郷隆盛と面会。
龍馬の西郷評「つかみどころのない馬鹿のように見える。 しかも底の知れぬ大馬鹿で釣鐘にたとえると、大きく打てば大きく鳴るし、小さくたたけば小さく鳴る」と。 これを聞いた海舟は「評される人も評される人、評する人も評する人」と、龍馬の鑑識眼に感服したとか。 西郷と勝海舟をつないだのが龍馬、歴史の表舞台へ
10月 神戸海軍操練所閉鎖、勝海舟は軍艦奉行罷免、江戸で謹慎となる。
龍馬は薩摩藩の小松帯刀と面談、貿易会社構想を披露、利害一致し、後援の約束を得る
1865年
(31歳)
4月 京都発、大坂から薩摩藩船胡蝶丸で長崎に寄港し、鹿児島へ。
熊本、大宰府、下関。龍馬は、「薩長和解」と「海運業の立上げ」という二大プロジェクトを推進する。 当時犬猿の仲であった薩摩と長州の和解を模索、この構想を聞いた公家の東久世は「偉人なり。奇説家なり」と評価。 この頃の龍馬は船で大坂、下関、長崎、江戸と縦横無尽に旅し、1ヶ所に腰を落ち着ける暇も無かった。
5月 吉田東洋暗殺事件の責で、武市半平太切腹、土佐勤皇党壊滅
6月 日本初の綜合商社「亀山社中」発足。
龍馬、近藤長次郎、千屋寅之助、高松太郎、新宮馬之助、沢村惣之丞等、約20名。 給料は薩摩藩の小松帯刀より支給された。給料はそこそこの額であり、丸山の遊郭へ登楼する者も多く、龍馬にも馴染みが居たといわれている。
6月 京都薩摩藩邸で西郷と面会、薩藩名義で長州藩のため武器購入を要請。
龍馬は「貿易」をもって長州と薩摩を和解させるという「奇策」の実行者となる。
8月 社中は薩摩藩名義で、グラバーより小銃他購入し、長州へ納める。
現代の貨幣価値に換算して22億円の大仕事。社中の初仕事であり、薩長同盟の第1歩でもあった。
9月 桜島条約締結。
これは社中がグラバーからユニオン号購入、名義は薩藩、所有者は長州、操船・運営・修理などの運用一切は亀山社中で、緊急時薩長両藩に提供するとの内容。 この手品のような条約は亀山社中の近藤長次郎が長州藩の井上聞多・伊藤博文との間で結んだ秘密条約である。
12月 ユニオン号(桜島丸)で長崎に回航。
コーヒーも含めて、和(日本)華(中国)蘭(オランダ)の文化が混然一体となった、江戸期の長崎は龍馬を惹きつけてやまなかったと想像される。
1866年
(32歳)
1月14日
亀山社中で、龍馬の右腕として活躍、数々の商談をまとめた近藤長次郎がグラバーの仲介で、英国密航を計画していることが社中の仲間にバレ、自刃(29歳)。
長次郎の死を京都で知った龍馬は「おれがおったら殺させはせぬのじゃった」と。
1月22日
龍馬の仲介で、西郷と桂ら京都薩邸で会合、薩長同盟成立。
薩長同盟がなされなかったら日本はどうなっていただろうか? 国内の混乱に乗じて、中国の清のように列強から半植民地化されていたかもしれない。
1月23日深夜、寺田屋事件。
不穏分子として幕府側から手配中の龍馬を伏見奉行の補史が襲った事件。
入浴中のお龍が不穏な気配を察し、龍馬らに知らせ、薩摩藩邸に駆け込み、危機を知らせた。 龍馬はピストルで応戦、負傷するも薩摩藩士に救出される。 お龍は献身的に龍馬の看病をした。何しろ医師楢崎将作の娘である。 「龍女がおればこそ龍馬の命はたすかりたり」と、乙女への手紙。 妻にする気持ちが固まったと思われる。
3月 傷の治療も兼ねて薩藩船で鹿児島へ。
龍馬にお龍が付き添い、これが日本最初の新婚旅行といわれている。
霧島の温泉めぐり、高千穂峰登山等の1ヶ月間が龍馬夫妻の蜜月だった。
5月 ワイルウェフ号が五島塩屋崎で沈没、池内蔵太(26歳)等社中12名殉職。
目をかけていた池内蔵太の死は痛手で「人間一生実に猶夢の如しと疑う」と。
また亀山社中の経営への痛手も大きかった。
6月 桜島丸でお龍と共に長崎へ。
龍馬は小曾根邸に行き、お龍を紹介、預かってもらう。 お龍は翌年2月までの8ヶ月間長崎に滞在、社中同志の面倒を見ながら、月琴を楽しんだといわれる。 龍馬はあわただしく長州へ。
6月〜9月 第二次長州征伐。
幕府軍三十三藩十万の軍に対し、三千五百の長州が高杉晋作の奇襲作戦、大村益次郎の指揮等により勝利。 軍艦奉行に再任されていた勝海舟が「厳島談判」として休戦協定。 龍馬は下関へ回船、戦争に参加説と高みの見物説の二説あり。
7月20日 将軍家茂大坂城中で病死(21歳)。妻は皇女和宮。
7月 伊予大洲藩いろは丸を借船、長崎、鹿児島へ。
10月
プロシャ商人チョルチーより洋帆船対極丸を薩藩の保証で購入したが、この頃の亀山社中は経営難に苦しんでおり、支払ができなかった。
12月 一橋慶喜が第15代将軍に就任。
1867年
(33歳)
1月
下関から長崎へ。 長崎清風亭で、土佐藩の後藤象二郎と会談。
後藤象二郎は土佐勤王党を弾圧したため、社中同志の恨みは根強いが、龍馬は社中のためには後藤が必要と会う。後藤が用意した宴席には龍馬の馴染みの芸者「お元」が呼ばれていたため、和やかに話が進んだとの説があるが、龍馬にとっては亀山社中が存亡の危機であり、土佐藩にとっても商売を始める上で龍馬の協力が必要と利害が一致、同格で提携が合意された。
倒産寸前の亀山社中は解散、海援隊へと発展的に転進し、土佐藩の商船隊として活用する。
土佐藩のバックアップはあったが、直接支配されず、海援隊の組織・運営等は龍馬に一任された。 龍馬は脱藩を許され、海援隊長に任命され、隊員達は浪人の立場のままで、自由に活動できた。 海援隊は海運・貿易・人材派遣・出版業などを手掛けた。 ここでも龍馬の時代の流れを見る目と交渉術に感嘆する。 亀山社中にとっても土佐藩にとってもWIN-WINの結果である。 なお海援隊の給料の支払いなどは土佐商会の岩崎弥太郎が担当した。 土佐商会は土佐藩が経営する商社である。  岩崎は明治に入ると土佐商会の権利を譲り受け、海運と貿易という龍馬の遺産を継ぎ、三菱商会として三菱財閥の基礎を築く。
2月  お龍と共に下関へ、お龍を豪商伊藤家に預ける。
4月  いろは丸沈没事件。
武器商品を満載し、長崎を出航した大洲藩いろは丸が瀬戸内海鞆の津沖で紀州藩船明光丸と衝突、いろは丸沈没。
5月 
龍馬は「万国公法」をもって長崎にて談判、紀州藩より賠償金を得て解決。 紀州徳川家が龍馬に負けた事件であり、 海難保険の無いころの海難事件における 賠償請求の第1号でもある。この件が後の龍馬暗殺紀州藩黒幕説の根拠となる。
6月 
土佐藩船夕顔で後藤象二郎と共に長崎出航、兵庫へ。 この船中で、龍馬は後藤に新しい日本をつくるために必要な政治綱領を語る。 これが有名な「船中八策」であり、後日明治政府の基本方針として布告された「五箇条のご誓文」の基案となったものである。 「大政奉還」「上下議政局」「官制改革」「不平等条約の改定」「憲法制定」「海軍力の増強」「近衛師団設立」「金銀交換レートの変更」を明文化、龍馬がいかに時代の先を読んでいたかが分かる。
後藤はこの「船中八策」を小松帯刀と西郷隆盛に見せ、船中八作について語る。 薩土盟約成立、龍馬・中岡陪席。
8月  長崎丸山のイカルス号水兵殺害事件に関し、長崎立山奉行所へ龍馬ら海援隊士出頭。
9月
オランダ商人ハットマンよりラウフル銃1300挺購入約定。 芸州藩船震天丸借用、銃器積載し、9月18日長崎出航、これが龍馬と長崎の別れとなる。 下関、高知入港。土佐藩に銃器引渡す。高知の坂本家に5年ぶりに帰宅、2泊。
10月  大坂着。
10月13日 大政奉還。
奇跡的な平和的政権交代である。 龍馬が仕掛け、薩長芸藩が挙兵倒幕の気運の中、薩摩藩小松、土佐藩後藤等が建白書を幕府に提出、徳川慶喜が決断した。 後藤象二郎から届いた大政奉還を報せる手紙に、龍馬は感涙にむせんだという。 一方で龍馬は「今夜中に新政府案を作らねば」と陸奥・戸田と新官制の草案策定に。 この新政府案参議中に大政奉還の立役者である龍馬の名が無いことを 西郷が尋ねると 「窮屈な役人は性に合わない。 自分は海援隊を世界の海援隊にする」と答えたという。 これも龍馬らしい逸話のひとつである。
11月
「三職制新官制案」を擬定。これは後藤から岩倉具視へ渡り、明治政府の職制のベースとなった。 同月、越前へ。松平春嶽と参議に推薦した三岡八郎に新政府参加方要請。
11月15日夜  
京都近江屋にて刺客に襲撃されて闘死。 満32歳の誕生日だった!
同席の中岡も遭難、翌々日に絶命(享年30歳)。
1868年 1月 鳥羽・伏見で薩長土と幕府開戦
3月 西郷・勝会談で江戸開城成立
   龍馬の「船中八策」を基案とする「五個条の御誓文」発布
8月 明治天皇即位

(注)年齢は数え年

[参考資料]
(1) プレジデント版ザ・マンシリーズ「坂本龍馬」/昭和55年7月20日/プレジデント社
(2)「海はるか坂本龍馬」 京都新聞出版センター編/2009.9.30/長崎新聞社発行
(3)「龍馬の長崎」 本田貞勝/2009.4.20/長崎文献社
(4)長崎ジーン第4号 特集「龍馬がまちを動かす」/2009.11.1/長崎市広報広報課
(5)「竜馬がゆく」 司馬遼太郎/文春文庫
(6)「坂本龍馬がゆく」 文芸春秋増刊くりま1月号 第88巻 第1号 2010.1.1 
(7)「コーヒー博物誌」 伊藤博/八坂書房/2001 他
   
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